【産後クライシスブログ第3話】
義理の両親からの嫁ハラに悩みながらも、それ以外は順調だといえるマタニティ&新婚期間だった。
産後、夫婦関係が崩壊していくのは驚くほど簡単で、スピーディーだった。
出産後、ワンオペ育児の不安から産後うつの症状が出る
なんと、安産だったにも関わらず病院に1週間入院した。
理由は、退院後のワンオペ育児が不安なため。
また、わたしは母乳が思うように出てくれず、子育ての不安や体の痛みから産後うつの症状が出ていたようで、助産師さんから保健所の自宅訪問を勧められた。
また、退院後には担当の助産師さんから自宅へ連絡をしてもらうように取り決めてもらっていた。
ここまで不安だったのには、2つの原因がある。
産後、夫の出世が重なってワンオペ育児となる
夫の勤め先は郊外にあり、社員が20人に満たない小さな会社だった。
夫は再婚で、毎月35,000円の養育費を支払っている。
この養育費はあと10年以上続き、前妻との子供の年齢に比例して毎月の支払い額も数年単位で上がっていく。
夫は高給取りではなかったので、わたしは思った暮らしができずに不満を抱いていた。
マイホーム購入の希望はあったが、夫はわたしの9つ歳上だったので退職までの短い期間で支払い終わる予定のローンの返済額は高すぎて、しばらく購入は断念せざるを得なかった。
養育費がなければ、と何度も思った(今度は自分がもらう側になるんだけど)。
そんな中、出世欲が皆無だった夫は奮起した。
新婚の妻と子どもの為に。
住まいは出産に合わせて、すでに実家のある中心地に引っ越していた(義両親からは大非難の洗礼を受けた)。
毎日片道2時間近くかけて会社に通勤し、夜は残業や接待や泊まりで、わたしが寝た後に帰宅した。
「うまくいけば、県中心地にある親会社に転籍できるかもしれない。そうすれば、給料も上がるし将来性もあるし、通勤も30分かからなくなる。」
夫はそう言い、四六時中仕事の話をしてどうすれば転籍できるか策を練り、仕事とは思えないような飲み会にも「情報収集のため」と言って参加し、仕事や付き合いに日々忙殺された。
休日はゴルフで不在か、屍のように寝ているかだった。
そう、これが悪夢の始まり。
次第に夫は「家族のため」という目的を見失い、家族を忘れて仕事にのめり込んでいった。
その期間、約1年半。
当時、夫に不安を感じ始めていたわたしの予感は的中してしまうことになった。
産後、心から頼れる人がいない不安
出産に伴い、実家のある中心地へ引っ越した。自宅から実家までは歩いて行ける距離にある。
“なんて恵まれているんだろう。”
そう、今でもわたしはそう思っている。ワンオペ育児といっても、実家が離れているママ達に比べたら月とスッポン状態だろう。
ただ、わたしは昔から家族の前では素の自分になれず、常に緊張し、気を遣い、居心地の悪さを感じていた。
父は厳しい人でいつも叱責されていたため、「父にとって自分はダメな人間だ。」という劣等感に長年苦しめられた。また、母は「わたしはわたし、あなたはあなた。」という一風変わった自由人で、ヒステリックだった。
母はいわゆる毒親で、わたしの交際する彼氏との話は聞きたがるくせに、いつも気づいたら別れさせられていた。
母は20代にもなったわたしに対して「どうしてお母さんを困らせるの!」と泣いた。
前夫と結婚をする際には、前夫を毛嫌いしていた母から「結婚するなら死んでやる!」と包丁片手に泣き叫ばれた。
そんなこんなで・・・・わたしは不安だった。
実家は近いけど、不安っていう意味をわかってもらえたら嬉しい。
産後、実家に2ヶ月間身を寄せる
乳腺炎と産後うつで「もう限界」
結局1週間も入院し、不安に苛まれながら退院した。
入院中は何人もの助産師さんが相談を聞きに病室に来てくれて、とてもありがたかった。と同時に、助産師さんのいない生活に恐怖を感じた。
退院した日の夜に39度以上の発熱と胸の激痛に襲われ、病院へ舞い戻った。乳腺炎だった。
それから、1日何回もしないといけない搾乳や無理そうな母乳育児に行き詰まった。
退院から1週間後の明け方に大声で泣き叫び、家族に「もう限界だ」という状況を露呈することとなった。
新生児のわが子を可愛いとは思えなくなり、「わたしに子どもを産むのはまだ早かった。」と周囲に漏らした。
産後うつを加速させた「夫の不在」
実際のところわたしを苦しめたのは「育児が限界だ」という状況をさらけ出してもなお、わたしの心に寄り添ってくれない夫の存在だった。
夫は平日は帰りが遅いからと言って、実家に立ち寄ることは1度もなかった。
2ヶ月もの間。徒歩で来れる距離なのに。
実家に行くのは気を遣う、と言っていた。
それでもわたしは「きつい。苦しい。」と言って、飲み会のない週末は1日だけ夫に実家に泊まってもらった。
代わりに寝かしつけと夜間のミルク(母乳はほぼ出ていなかった)やおむつ替えを頼んだのだ。
わたしは少しでも子どもと離れる時間が欲しかった。
そして夫に育児の大変さを知ってもらいたかった。夫からの、共感や労わりが欲しかったのだ。
いつも、「お疲れ様。大変だね。」と声をかけるのはわたしからだった。
けれど残念なことに、普段絶対に3時間も寝てくれないわが子が、夫の前だと6時間寝続けた。
翌朝「楽だったよ?こんなんだったら毎週末これるよ?」とスッキリした顔で言ってきた夫を見て、一瞬思考が停止した。
どこにもぶつけられない怒りと絶望を感じた。
実母と実家で過ごすストレス
夫の不在と育児の不安、産後1ヶ月経ってもまともに出ない母乳、産後続く全身の痛み、毎回手袋をしておむつ替えをしても悪化していく手湿疹・・
これらの不安から、わたしは産後1ヶ月経った日に「まだ実家にいさせてくれ」と実母に頼んだ。
母はしょうがなさそうに了承したが、母のストレスメーターは既に高まっていた。
夫が毎週末泊まりにくるので、豪華な食事を作り(接待並み)、良い義母を演じ、夫の帰宅後は客用布団を干して全てのカバーを洗う。
母は、わたしが子供を連れて実家に帰ってきてから自分の自由な時間が減っていた。加えて毎週末は婿の世話。
“自分がこんなに大変なのは、すべて婿のせいだ”
と、母の怒りの矛先は夫へと向いた。
「夫のくせに、父親のくせに、どうして育児や妻のフォローをせずに自分達(義実家)に丸投げしているのか?」と思ったらしい。
それから母はわたしに対して不満や嫌味、夫の悪口を言うようになり、居心地の悪さは日に日に増していった。
母の好意に甘えると、たいていの場合、最後は母のストレスが爆発して終わる。
今でも母は夫のことを毛嫌いし、わたしは母の前だと常に緊張する。
そしてわたしも「夫のせいだ」と、母と夫の板挟みなって強く感じていた。
夫への不信感の始まり
実家生活が2ヶ月になろうとする頃、母のストレスとわたし自身のストレスが限界値に達していた。そこで、自宅へと帰る決心をした。
未だに後悔しているのは、子どもが生まれて新生児の大変な時期に夫と別々で暮らしていたことである。
今思えば、あの時期が、自分の体も心も育児も一番辛かった。
夫はそれを知らない。
何も知らないまま「育児は楽勝」と言っている。
本当の絶望は、絶望を感じたときではなくて、愛する人がその絶望に共感してくれないことだった。
続きは以下よりどうぞ(全9話)
